神戸大学学生広報チーム・活動報告

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【取材報告】~神戸大学敷地内に眠る戦争の記憶~(前編) 農学研究科附属食資源教育研究センター(加西市鶉野町)内の戦争遺構見学レポート

 神戸大学大学院農学研究科附属食資源教育研究センターは、兵庫県加西市鶉野町に位置し、田畑や果樹園を抱える広大な敷地の中で、本学農学部・農学研究科の学生・教員が実習や研究を行っている場所です。

 しかし、このセンターにあるのは農学の学びの場だけではありません。実はここは、多くの戦争遺構が残っている場所でもあります。というのも、このセンターが位置する加西市鶉野町は、太平洋戦争の戦時中に海軍の飛行場や民間の航空機工場が位置し、現在までいくつかの戦争遺構が遺る町なのです。現在のセンターの敷地は、戦時中は海軍航空基地の中枢施設が集中していた場所であるため、特に多くの戦争遺構が集中しています。

 前編では、特別に許可を得て見学した戦争遺構の数々をレポートします!


加西市鶉野町(センター付近)の歴史概略(詳しくは後編にて)

1943年10月 姫路海軍航空隊が開隊。それに伴い鶉野飛行場を含む航空隊の施設が現・食資源教育研究センター付近に開設。姫路海軍航空隊は、パイロット養成のための、飛行機(戦闘機)操縦の実用訓練を行う練習部隊であった。

1944年12月 姫路海軍航空隊の敷地に隣接し、川西航空機姫路製作所鶉野工場が操業開始。戦闘機「紫電」、「紫電改」等の組立が行われた。

1945年8月15日 終戦。その後、旧姫路海軍航空隊の敷地はアメリカ軍による接収・管理や警察予備隊の進駐を経て、1957年、大蔵省の所管に

1967年 神戸大学農学部附属農場(現・食資源教育研究センター)が旧姫路海軍航空隊跡地に開場


 この戦争遺構は一般公開をされておらず、センターに学びに来る学生も、遺構の存在を周知はされているものの、実際に内部まで詳しく見学した学生はいないそうです。

 ぜひこの機会に、神戸大学の敷地内にある戦争遺構の存在を、多くの方々に知っていただければと思います。

戦争遺構・レポート

(※加西市に貸与されている・一般公開されている遺構を除く。画像は、一部加工・トリミング等の編集を施しています)

遺構マップ・ピンク線の枠内がセンター敷地(出典:加西・鶉野飛行場跡)

※遺構マップの①~⑪が、以下の通し番号(1)~(11)に対応

(1)防空壕① 

 普段は長方形の開口が蓋でふさがれているが、内部は空洞のまま現存しており、垂直方向に穴が開いた状態である。地下部に下る階段はないが、はしごをかけて下に降りることができる。内部は温度や湿度の変化が少ないため、現在はサツマイモの貯蔵などに活用されている。垂直方向に降りるとアーチ型の天井をもつ広い地下空間が広がっており、奥の方向には通気口が設けられている。内部の空間はやや「く」の字型に屈曲している。内壁のコンクリートはひび割れ等も少なく、約80年前の建造物とは思えないほど状態が良い。

はしごで垂直型の穴を降りる

アーチ型天井と広い空間

センターによりさつまいもを貯蔵する箱が置かれている

防空壕奥の壁には通気口がある
(2)貯油庫

 内部はすでに埋められており、外からは地上に露出した入り口部分のコンクリートが見えるだけだ。垂直方向の穴の形になっていたとみられる。この貯油庫の近くで、不発弾が発見されたこともある。

貯油庫
(3)防空壕

 周囲のかさ上げにより、入り口の位置が周囲の地面よりも低くなっている。小高い斜面を下って入り口に至るため、内部は埋められてはいないものの、人が入ることは難しい。取材当時は、センター側で伐採した木々が入り口の前に少し置かれ、容易には人や動物が入れないようにされていた。

防空壕
(4)対空機銃座

 上空から攻撃する敵軍の飛行機を銃で撃つ際に、大きな機銃を装備して銃弾を撃っていた場所・設備が、対空機銃座である。対空機銃座は、コンクート製の構造の地上に露出した上部が、実際に機銃を置いて撃つ部分であり、下部の地下に埋もれた部分が、銃弾など必要な道具を収める地下室である。地下室には、階段が設けられた対空機銃座外部からの入り口と、上部の機銃を設置する部分と連絡する垂直な昇降口(壁面にはしご有)がある。地下室のコンクリートはひび割れなどの老朽化は目立たないが、地上に露出した部分のコンクリートは、一部が自然に崩壊しているため、対空機銃座は形が変わっている。大学施設の敷地内になった後も、一時は地下室が職員の休憩所や物置として使われたこともあるという。

対空機銃座の外観。コンクリートの一部が崩壊し、全体が変形している

対空機銃座の入口
 

対空機銃座の入口
(5)防空壕

 かさ上げにより、入り口部分の地面が高くなっている。現在は人が入れない状態になっている。周囲が物置として使われている。

防空壕

防空壕
(6)発電機室

 地下に発電機を収めていた設備である。土と芝や草によって覆われ、上空からは小山のように見えるようにされている。外部(地上)からの入り口は2つあり(現在、そこから入ることはできない)、その跡が今でも確認できる。

発電機室
(7)暗号班室

 暗号班室は、隣接する姫路海軍航空隊本部庁舎内の航海科通信室から、有線及び無線の通信による情報を解読する暗号班の隊員が配置されていた場所であった。各航空隊や大本営(戦時の日本の陸海空軍の最高統帥機関)との通信連絡では、暗号班室で解読及び送受信が行われた。隣接する地上の本部庁舎とは独立した防空壕の構造になっており、隣の発電機室(上記)で発電された電気を用いることで、本部庁舎の機能が攻撃等で失われても通信機能を維持できた。

 かつてはカモフラージュのため土で覆われていたが、職員によってその土が削り取られたため、今はコンクリート製の外壁がむき出しである。入り口が2つあり(現在、そこから入ることはできない)、その跡が今でも確認できる。

暗号班室

暗号班室

横に並ぶ発電機室(手前)と暗号班室(奥)
(8)防空壕

 コの字型に2本の通路を組み合わせたような形で、出入り口が4つある。土手(斜面)に沿って防空壕があるため、斜面の下に出入り口が2か所、斜面の上につながる出入り口が2か所ある。斜面下の(図の)右側出入り口は、目立たないように前に曲形の土塁のようなものが置かれ、正面からは出入り口が見えにくくなっている。左側出入り口は、かつて同様に土塁が置かれていたが、現在は削り取られており、正面から出入り口が見えている。内部のコンクリートの状態はよい。

防空壕④の入り口

右へ曲がる通路空間と前方への通路空間がある

斜面下に防空壕入り口があるが、土塁状の土を盛った構造により、その位置が分かりにくくなっている

マーキング部分に防空壕入り口があるが、土塁によって見えにくくされている

赤い〇印で示した部分が斜面下に位置する出入り口(写真にも写っているところ)
青い〇印が防空壕の奥にある、斜面上に通じる出入り口
(9)防空壕⑤ 

 【(8)防空壕④】の近くにある防空壕。現在は内部が埋められ立ち入ることはできない。

(10)防火用水

 名前の通り、防火用水の貯水タンクとなっている。現在でも貯水タンクとして活用されており、取材時も水が溜まっていた。貯めた水は、稲の苗などの植物の水やり等に活用されているという。塗装(モルタル)に一部老朽化が見られるが、パイプなどの設備も設置され、現在でも活用されている。

貯水タンク

貯水タンクは今も水をためて活用されている
(11)エプロン

 かつては飛行場に発着する飛行機の駐機場となっていた場所であった、コンクリートで敷かれた130メートル四方のスペースである。一部分がセンターの畑になっているものの、土の下にはコンクリートが残っているため、全体が現存している。コンクリートは長い年月が経っているため、傷みも見られる。所々、丸く穴が開いているところがある。

エプロン

画像奥の広い空間がエプロン

 


 以上、戦争遺構に関するレポートでした。食資源教育研究センター内の戦争遺構は、コンクリートの耐久性が高いこと、地下空間にあるものが多いことから、比較的原型を留めたまま現存するものが多いです。ため池や森林、畑や果樹園に囲まれた自然豊かな環境であるため、防空壕内には落ち葉や植物残渣が見られ、それらが堆積している防空壕も見られます。また、原形を留める構造物以外にも、コンクリートの残骸が自然に放置されたものも見られ、かつては更に多くの関連する施設があったことを示していました。

道沿いに残るコンクリートの残骸

斜面に残るコンクリートの残骸

 今回戦争遺構を案内していただいた食資源教育研究センター職員によると、現存する戦争遺構は、【(7)暗号班室】において、コンクリート構造を覆う土を削り取ったことと、【(8)防空壕④】において、一部の土塁状の構造を削り取ったこと以外では、保全目的の改修も含めて、食資源教育研究センターが手を加えたことはなく、特別な保全作業もなされていないとのことです。ただ、戦争遺構は内部が空洞になっているものが多く、動物や人の侵入のリスクがあるため、本記事では掲載していませんが、かつて内部を埋められた戦争遺構も存在するそうです。

 

 さて、神戸大学の敷地内に防空壕などの戦争遺構が多くあることに驚かれた方も多いのではないでしょうか。後編では、なぜ加西市鶉野町、そしてこのセンターに、戦争遺構が多く残っているのかお伝えします。ぜひご覧ください!

 

記事を担当した学生

  • 文学部 2年 岡島 智宏