神戸大学学生広報チーム・活動報告

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【取材報告】~神戸大学敷地内に眠る戦争の記憶~(後編) 上谷昭夫氏に聞く、加西市鶉野町の歴史

 兵庫県加西市鶉野町に位置する神戸大学大学院農学研究科附属食資源教育研究センター敷地内には、太平洋戦争時の戦争遺構が多く現存しています。前編では、その戦争遺構の現在の様子をお伝えしました。

 さて、なぜ神戸大敷地内に多くの戦争遺構があり、今に至るまで残されてきたのか?

―その理由を探るため、今回、加西市鶉野地域の戦争遺構および戦争の歴史を長年にわたり調査してきた上谷昭夫氏(鶉野平和祈念の碑苑保存会理事)にお話を伺いました。本編では、鶉野地域に飛行場が設置された経緯およびその後の鶉野の戦争遺構の歴史に関する、上谷さんのお話をお伝えします。

上谷昭夫さん(鶉野平和祈念の碑苑保存会理事)

 上谷昭夫さんは、長年にわたり鶉野地域の戦争に関わる歴史を調査し続け、また資料館の運営や語り部としての活動を通じて鶉野での戦争の記憶の継承にも取り組まれている方です。上谷さんは1973(昭和48)年に鶉野に来て、鶉野飛行場滑走路跡のすぐ近くにある会社で働き始めました。そのころ、戦争から約30年が経ち、戦時中に鶉野にいた元軍隊の人たちが、彼らにとっての「青春」、すなわち戦時中を顧みて、滑走路や関連施設が残っているのではないかと鶉野を訪れた際に、上谷さんが勤務する会社にしばしば立ち寄ったそうです。このような出来事がきっかけで鶉野の戦争の記憶に興味を持ち、平成の時代に入ってから、上谷さんは、鶉野飛行場や姫路海軍航空隊について、当時の関係者の話や資料をもとに調べ始めました。現在の神戸大学の敷地内は航空隊の本部があったところで、建物や防空壕が多くあったと考えられることから、上谷さんは当時センターにいた職員や学生と協力しながら、敷地内の遺構を、地図を片手に調査し、記録したそうです。


では、ここから、上谷さんのお話です。

戦争遺構が残る町・鶉野の歴史

― 加西市鶉野町にかつて存在した姫路海軍航空基地(鶉野飛行場)は、1943(昭和18)年10月から使用が開始された。同月に開隊した姫路海軍航空隊は飛行機の実用訓練を行う練習部隊であり、鶉野飛行場で飛行機の訓練を行った。いわば、パイロットを養成する施設として機能したのである。

また、鶉野には、飛行場だけでなく、川西航空機株式会社(飛行機を生産する企業)の組立工場があった。ここでは、「紫電」や「紫電改」といった戦闘用の飛行機が製造された。この工場が鶉野飛行場の隣接地で操業を開始したのは1944(昭和19)年12月、終戦の約8か月前であった。―

近年の鶉野飛行場跡地(滑走路跡)の様子。現在は、写真の奥、滑走路跡の終端に加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」および慰霊碑「鶉野平和祈念の碑」がある/資料提供:鶉野平和祈念の碑苑保存会
「加西地域に飛行場を」地元の動き【1935(S10)年頃】

 ここ鶉野に飛行場を作ろうという話が出たのは、1935(昭和10)年のことです。当時の陸軍大臣が、「関西地方は飛行場が少なく、防空施設がない。しかし、これからの戦いは飛行機による戦いになってくる、だから関西を守るための防空隊と飛行場を作らなければ」という発言をしました。それは新聞のトップに載るほどの話だったのですよ。そこで、加西郡(現在の加西市全域および西脇市・多可町の一部)に陸軍の飛行場をという話が出たのです。北条町、下里村など加西郡の1町10村の町長・村長らが同意し、当時の陸軍大臣に飛行場建設の陳情書(「飛行場設置二関スル陳情書」)を出した記録があります。この加西郡奥播磨にあったので、当時は発展性に乏しいという悩みがあり、もし軍隊や工場ができれば、それは加西郡の発展につながるのではないか、という事情がそこにはありました。それで、放牧地や農地といった広大な土地があって、家などの建物が少ない、鉄道も近くを走っているといった立地条件の良さを示して、「ここに工場を作ってください」と陳情したようです。当時は町の人たちも飛行場を願っていたわけですよ。ところが、飛行場は加西郡ではなく、現在の加古川市に建設されることになりました。そこで飛行場建設の話は一度立ち消えになって、そのうちに、1941(昭和16)年、太平洋戦争が始まりました。

鶉野に海軍飛行場建設へ【1941(S16)年 太平洋戦争開戦~1943(S18)年10月 航空隊開隊】

 1941(昭和16)年12月8日、太平洋戦争が始まりました。そのときはまだ飛行場を作るという話はありません。しかし、真珠湾攻撃ミッドウェー海戦などを経て、パイロットの戦死者が増えると、日本はパイロット不足に見舞われました。そこで、とにかくどこかに練習航空隊とパイロット養成の施設を作らなければならないというときに、こっそり軍は知っていたんでしょう、陳述書まで書いて、飛行場を作ってくれと言った町があることを。開戦から約7か月経った、1942(昭和17)年の7月15日に、姫路海軍航空隊設置委員会というものが設立されたことが、最近になり分かりました。このときまでに、鶉野に海軍の飛行場を造る話が出たということです。ところが、地元に用地買収を交渉する段階になると、飛行場建設が歓迎されることはなく、地元の人たちからはむしろ否定的な声が目立ちました。しかし地元の人の中には、「軍がここに飛行場を作りたいと言うんやったら、やっぱり賛同せんといかん。国を挙げての戦争や」という人もいたので、地元は仕方なく飛行場建設に同意し、用地買収もスムーズに進んだのです。用地買収は約83万坪(約274万平方メートル)もの規模でした。

 ということで、翌年(1943年・昭和18年)1月に用地を買収し、同年3月5日には、飛行場の工事を着工したのです。そのときには、すでに姫路海軍航空隊を開く(開隊)日が決まっていました。その日までに飛行場が完成しないといけないので、実質その日までが工期です。3月に着工して、同年10月1日に姫路海軍航空隊を開隊、という短い工期ですから突貫工事です。飛行機が離着陸できるようにするには、滑走路の長さは1000mは要るということで、長さ1500mの滑走路ができました。当時は滑走路が3本ありました。10月1日に姫路海軍航空隊は開隊し、10月8日には、飛行機がさっそく20機来ました。当時、子どもたちは飛行機を見るのが楽しみだったようです。

 ちなみに、兵庫県には陸軍飛行場が4か所(加古川・三木・伊丹・三原)ありましたが、海軍の飛行場はここだけでした。また、当時の滑走路跡、それも1000m超えのものが今でもみられる飛行場はなかなかありません。

鶉野飛行場に隣接して川西航空機の工場進出【1943(S18)年~1945(S20)年 終戦

 太平洋戦争開戦時、川西航空機の飛行機生産工場は、武庫郡鳴尾村(現在の兵庫県西宮市の一部)にあり、戦争のために飛行機を多く生産していました。そんな中、ここで開発された陸上の戦闘機「紫電」が非常にいいという評価を受けて、増産しようということになります。一つの工場だけで生産するのでは非常に生産数が少なかったので、「もう一か所工場を」というときに、川西航空機の新しい飛行機生産工場となったのが、日本毛織の姫路工場(現在の姫路市・JR播但線京口駅近く)でした。日本毛織川西航空機やその親会社、川西機械製作所と関係のある会社で、姫路工場を含めて兵庫県内で3つの工場がありましたが、戦争が始まったら、綿花が入ってこないため、販売する毛織物の生産ができなくなったんです。そこで、その工場で飛行機を作れということで、戦争が始まって次の夏(1942年7月)には、姫路工場が早々と飛行機生産工場(川西航空機姫路製作所)に変わり、操業が始まりました。しかし、工場近くに完成した飛行機を飛ばす飛行場がないと、飛行機を作っても仕方がない、そこで、海軍の飛行場が完成していたここ鶉野に、1944(昭和19)年12月に飛行機組立工場が開設されました。姫路製作所で「紫電」や「紫電改」(いずれも戦闘用の飛行機)を製造したのち一度分解して、その部品を鶉野工場に運び、再びここで組み立て、鶉野飛行場で飛ばしました。ここで製作された飛行機「紫電改」(1945年3月生産開始)は、非常に優秀な飛行機でした。日本が戦争で不利な状況に陥っていたときにゼロ戦より圧倒的に優れた飛行機を作ったのです。この工場では戦争が終結する1945(昭和20)年8月まで「紫電改」などの生産が続きました。

―1945年2月、終戦が近づくと、戦局の悪化に伴い、姫路海軍航空隊からも神風特別攻撃隊(神風特攻隊)「白鷺(はくろ)隊」が編成されることとなった。同年3月23日、63名の若者が宇佐(大分県)に向けて飛び立ち、その後、串良(鹿児島)を経由して、沖縄戦に出撃し、沖縄近海にて戦死した。―

終戦直後の飛行場活用【1945(S20)年・終戦~1957(S32)年・国の管轄へ】

 1945(昭和20)年8月15日の終戦後、その年の10月16日までに、ここにあった飛行機はほぼ全部焼却され、「紫電」3機はアメリカに運ばれました。基地には、1945年10月から1946(昭和21)年5月までは占領軍が駐留していました。

 また、1945年秋には、この飛行場(基地)を農地に変えるということで、満州などあちこちからの引揚者が開拓団として鶉野に来ました。終戦直前の1944~1945年は、国民の食糧が激減して、この2年だけで体がガリガリに痩せるほどの食糧難でした。そういった食糧事情があったため、飛行場跡を農地にしようという話になったのです。基地跡地の開拓事業により、基地の大半は広大な農地になりました。ところが滑走路をはじめ、一部の施設は残りました。朝鮮戦争(1950-1953)が起こると、アメリカ軍が来て、滑走路を接収し使い始めました。1952(昭和27)年4月には警察予備隊が進駐し、滑走路を管理しました。1957(昭和32)年には接収が解除され、滑走路と他の戦争遺構は自衛隊(1954年に警察予備隊から改編)から大蔵省の管理という扱いになりました。つまり、国有地になったんです。実際の管理をしていたのは、自衛隊の業務隊でした。

昭和23年3月の鶉野の航空写真。まだ姫路海軍航空隊の建物が残っている。写真右上の滑走路は現存する滑走路跡/資料提供:鶉野平和祈念の碑苑保存会

現在の鶉野付近の地図。緑線の枠内が現存する滑走路跡、オレンジ線の枠内が食資源教育研究センター敷地。上の写真と見比べると、センター敷地がかつての姫路海軍航空隊跡地の大部分に重なることがわかる。/出典:Googleマップ

上の写真(昭和23年3月)の、「姫路海軍航空隊跡」付近を拡大。姫路海軍航空隊跡地の大部分は、現在の神戸大学食資源教育研究センターの敷地。航空隊の中枢機能があったため、現在でもこの付近には多くの遺構が残る/資料提供:鶉野平和祈念の碑苑保存会
基地跡の一部が神戸大学農学部の敷地に【1967(S42)年】

 あるとき(※時期は不明)、自衛隊の千僧駐屯地(兵庫県伊丹市)に防空壕などの戦争施設の取り壊しを依頼したことがありましたが、「防空壕がたくさんあり、しかもコンクリートはあまりにも堅い。これをつぶすとなったらすごい金かかるで」ということで、建物だけ解体して、防空壕などはそのまま残しておくことになったんですよ。1964(昭和39)年頃に、兵庫農科大学(1966年、神戸大学農学部に移管)の附属農場(※現在の神戸大学大学院農学研究科附属食資源教育研究センター)建設が決まり、1967(昭和42)年には附属農場が開場しました。このときにも、防空壕は取り壊されませんでした。幸いなことに、神戸大学の敷地内、すなわち公の土地になったので、役所も民間(の人・企業)も遺構には手を付けられなかったのです。神戸大学が来たおかげで、ここの遺構はそっくりそのまま残っているともいえます。民間が手を付けなかったもう一つの理由には、水がなかったことも挙げられます。地下を5,6mほど掘らないと水が出ず、当時は水道もありませんでした。そのため、工場などにいい立地ではなかったのです。

 こういった理由で戦争遺構はかなり放置されました。ただ、そのおかげで今に至るまで残っています。

現在の鶉野飛行場滑走路跡地の様子。広大な滑走路が残されている

現在は加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」の敷地内に位置する慰霊碑「鶉野平和祈念の碑」。1999年(H11年)に作られた。この慰霊碑には、沖縄近海で戦死した白鷺隊員や鶉野で殉職した隊員らの名が刻まれている

神戸大学大学院農学研究科附属食資源教育研究センター敷地内の戦争遺構の詳細については前編にて

 最後に、上谷さんからのメッセージです。

 私は今83歳で、終戦の時に7歳くらいでしたので、戦争を実際に経験している世代です。私の実家は高砂(現在の高砂市)にあり、近くに加古川飛行場があったので、上空に戦闘機が飛んできたり、防空壕に逃げ込んだり、父が戦争に行ったりと、そういったことがありました。その後、不思議とここ鶉野に来たので、飛行場や航空隊のことなど、鶉野に関することをいろいろ調査してまとめてきました。若い人たちが特攻隊として飛び立っていった話など、非常にかわいそうな話も多いです。しかし、80年近く前のことで、ほとんどの人の記憶はなくなっているでしょうし、若者にとっては遠い出来事かもしれません。今回、鶉野という戦争遺構が多く残っている町の存在、また鶉野で起こった出来事について多くの人に、そして神戸大学の学生の方にも知ってもらえたらと思います。

 

※なお、当記事の執筆にあたり、以下の資料を参考資料として用いています。

・「加西・鶉野飛行場跡 ガイドブック」(加西市ホームページ内,https://www.city.kasai.hyogo.jp/uploaded/attachment/2140.pdf

・「子ども向けガイドブック鶉野飛行場」(加西市ホームページ内,https://www.city.kasai.hyogo.jp/uploaded/attachment/2141.pdf

関連リンク

www.city.kasai.hyogo.jp

 

記事を担当した学生

  • 文学部 2年 岡島 智宏