神戸大学学生広報チーム・活動報告

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【取材報告】~神戸大学敷地内に眠る戦争の記憶~(後編) 上谷昭夫氏に聞く、加西市鶉野町の歴史

 兵庫県加西市鶉野町に位置する神戸大学大学院農学研究科附属食資源教育研究センター敷地内には、太平洋戦争時の戦争遺構が多く現存しています。前編では、その戦争遺構の現在の様子をお伝えしました。

 さて、なぜ神戸大敷地内に多くの戦争遺構があり、今に至るまで残されてきたのか?

―その理由を探るため、今回、加西市鶉野地域の戦争遺構および戦争の歴史を長年にわたり調査してきた上谷昭夫氏(鶉野平和祈念の碑苑保存会理事)にお話を伺いました。本編では、鶉野地域に飛行場が設置された経緯およびその後の鶉野の戦争遺構の歴史に関する、上谷さんのお話をお伝えします。

上谷昭夫さん(鶉野平和祈念の碑苑保存会理事)

 上谷昭夫さんは、長年にわたり鶉野地域の戦争に関わる歴史を調査し続け、また資料館の運営や語り部としての活動を通じて鶉野での戦争の記憶の継承にも取り組まれている方です。上谷さんは1973(昭和48)年に鶉野に来て、鶉野飛行場滑走路跡のすぐ近くにある会社で働き始めました。そのころ、戦争から約30年が経ち、戦時中に鶉野にいた元軍隊の人たちが、彼らにとっての「青春」、すなわち戦時中を顧みて、滑走路や関連施設が残っているのではないかと鶉野を訪れた際に、上谷さんが勤務する会社にしばしば立ち寄ったそうです。このような出来事がきっかけで鶉野の戦争の記憶に興味を持ち、平成の時代に入ってから、上谷さんは、鶉野飛行場や姫路海軍航空隊について、当時の関係者の話や資料をもとに調べ始めました。現在の神戸大学の敷地内は航空隊の本部があったところで、建物や防空壕が多くあったと考えられることから、上谷さんは当時センターにいた職員や学生と協力しながら、敷地内の遺構を、地図を片手に調査し、記録したそうです。


では、ここから、上谷さんのお話です。

戦争遺構が残る町・鶉野の歴史

― 加西市鶉野町にかつて存在した姫路海軍航空基地(鶉野飛行場)は、1943(昭和18)年10月から使用が開始された。同月に開隊した姫路海軍航空隊は飛行機の実用訓練を行う練習部隊であり、鶉野飛行場で飛行機の訓練を行った。いわば、パイロットを養成する施設として機能したのである。

また、鶉野には、飛行場だけでなく、川西航空機株式会社(飛行機を生産する企業)の組立工場があった。ここでは、「紫電」や「紫電改」といった戦闘用の飛行機が製造された。この工場が鶉野飛行場の隣接地で操業を開始したのは1944(昭和19)年12月、終戦の約8か月前であった。―

近年の鶉野飛行場跡地(滑走路跡)の様子。現在は、写真の奥、滑走路跡の終端に加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」および慰霊碑「鶉野平和祈念の碑」がある/資料提供:鶉野平和祈念の碑苑保存会
「加西地域に飛行場を」地元の動き【1935(S10)年頃】

 ここ鶉野に飛行場を作ろうという話が出たのは、1935(昭和10)年のことです。当時の陸軍大臣が、「関西地方は飛行場が少なく、防空施設がない。しかし、これからの戦いは飛行機による戦いになってくる、だから関西を守るための防空隊と飛行場を作らなければ」という発言をしました。それは新聞のトップに載るほどの話だったのですよ。そこで、加西郡(現在の加西市全域および西脇市・多可町の一部)に陸軍の飛行場をという話が出たのです。北条町、下里村など加西郡の1町10村の町長・村長らが同意し、当時の陸軍大臣に飛行場建設の陳情書(「飛行場設置二関スル陳情書」)を出した記録があります。この加西郡奥播磨にあったので、当時は発展性に乏しいという悩みがあり、もし軍隊や工場ができれば、それは加西郡の発展につながるのではないか、という事情がそこにはありました。それで、放牧地や農地といった広大な土地があって、家などの建物が少ない、鉄道も近くを走っているといった立地条件の良さを示して、「ここに工場を作ってください」と陳情したようです。当時は町の人たちも飛行場を願っていたわけですよ。ところが、飛行場は加西郡ではなく、現在の加古川市に建設されることになりました。そこで飛行場建設の話は一度立ち消えになって、そのうちに、1941(昭和16)年、太平洋戦争が始まりました。

鶉野に海軍飛行場建設へ【1941(S16)年 太平洋戦争開戦~1943(S18)年10月 航空隊開隊】

 1941(昭和16)年12月8日、太平洋戦争が始まりました。そのときはまだ飛行場を作るという話はありません。しかし、真珠湾攻撃ミッドウェー海戦などを経て、パイロットの戦死者が増えると、日本はパイロット不足に見舞われました。そこで、とにかくどこかに練習航空隊とパイロット養成の施設を作らなければならないというときに、こっそり軍は知っていたんでしょう、陳述書まで書いて、飛行場を作ってくれと言った町があることを。開戦から約7か月経った、1942(昭和17)年の7月15日に、姫路海軍航空隊設置委員会というものが設立されたことが、最近になり分かりました。このときまでに、鶉野に海軍の飛行場を造る話が出たということです。ところが、地元に用地買収を交渉する段階になると、飛行場建設が歓迎されることはなく、地元の人たちからはむしろ否定的な声が目立ちました。しかし地元の人の中には、「軍がここに飛行場を作りたいと言うんやったら、やっぱり賛同せんといかん。国を挙げての戦争や」という人もいたので、地元は仕方なく飛行場建設に同意し、用地買収もスムーズに進んだのです。用地買収は約83万坪(約274万平方メートル)もの規模でした。

 ということで、翌年(1943年・昭和18年)1月に用地を買収し、同年3月5日には、飛行場の工事を着工したのです。そのときには、すでに姫路海軍航空隊を開く(開隊)日が決まっていました。その日までに飛行場が完成しないといけないので、実質その日までが工期です。3月に着工して、同年10月1日に姫路海軍航空隊を開隊、という短い工期ですから突貫工事です。飛行機が離着陸できるようにするには、滑走路の長さは1000mは要るということで、長さ1500mの滑走路ができました。当時は滑走路が3本ありました。10月1日に姫路海軍航空隊は開隊し、10月8日には、飛行機がさっそく20機来ました。当時、子どもたちは飛行機を見るのが楽しみだったようです。

 ちなみに、兵庫県には陸軍飛行場が4か所(加古川・三木・伊丹・三原)ありましたが、海軍の飛行場はここだけでした。また、当時の滑走路跡、それも1000m超えのものが今でもみられる飛行場はなかなかありません。

鶉野飛行場に隣接して川西航空機の工場進出【1943(S18)年~1945(S20)年 終戦

 太平洋戦争開戦時、川西航空機の飛行機生産工場は、武庫郡鳴尾村(現在の兵庫県西宮市の一部)にあり、戦争のために飛行機を多く生産していました。そんな中、ここで開発された陸上の戦闘機「紫電」が非常にいいという評価を受けて、増産しようということになります。一つの工場だけで生産するのでは非常に生産数が少なかったので、「もう一か所工場を」というときに、川西航空機の新しい飛行機生産工場となったのが、日本毛織の姫路工場(現在の姫路市・JR播但線京口駅近く)でした。日本毛織川西航空機やその親会社、川西機械製作所と関係のある会社で、姫路工場を含めて兵庫県内で3つの工場がありましたが、戦争が始まったら、綿花が入ってこないため、販売する毛織物の生産ができなくなったんです。そこで、その工場で飛行機を作れということで、戦争が始まって次の夏(1942年7月)には、姫路工場が早々と飛行機生産工場(川西航空機姫路製作所)に変わり、操業が始まりました。しかし、工場近くに完成した飛行機を飛ばす飛行場がないと、飛行機を作っても仕方がない、そこで、海軍の飛行場が完成していたここ鶉野に、1944(昭和19)年12月に飛行機組立工場が開設されました。姫路製作所で「紫電」や「紫電改」(いずれも戦闘用の飛行機)を製造したのち一度分解して、その部品を鶉野工場に運び、再びここで組み立て、鶉野飛行場で飛ばしました。ここで製作された飛行機「紫電改」(1945年3月生産開始)は、非常に優秀な飛行機でした。日本が戦争で不利な状況に陥っていたときにゼロ戦より圧倒的に優れた飛行機を作ったのです。この工場では戦争が終結する1945(昭和20)年8月まで「紫電改」などの生産が続きました。

―1945年2月、終戦が近づくと、戦局の悪化に伴い、姫路海軍航空隊からも神風特別攻撃隊(神風特攻隊)「白鷺(はくろ)隊」が編成されることとなった。同年3月23日、63名の若者が宇佐(大分県)に向けて飛び立ち、その後、串良(鹿児島)を経由して、沖縄戦に出撃し、沖縄近海にて戦死した。―

終戦直後の飛行場活用【1945(S20)年・終戦~1957(S32)年・国の管轄へ】

 1945(昭和20)年8月15日の終戦後、その年の10月16日までに、ここにあった飛行機はほぼ全部焼却され、「紫電」3機はアメリカに運ばれました。基地には、1945年10月から1946(昭和21)年5月までは占領軍が駐留していました。

 また、1945年秋には、この飛行場(基地)を農地に変えるということで、満州などあちこちからの引揚者が開拓団として鶉野に来ました。終戦直前の1944~1945年は、国民の食糧が激減して、この2年だけで体がガリガリに痩せるほどの食糧難でした。そういった食糧事情があったため、飛行場跡を農地にしようという話になったのです。基地跡地の開拓事業により、基地の大半は広大な農地になりました。ところが滑走路をはじめ、一部の施設は残りました。朝鮮戦争(1950-1953)が起こると、アメリカ軍が来て、滑走路を接収し使い始めました。1952(昭和27)年4月には警察予備隊が進駐し、滑走路を管理しました。1957(昭和32)年には接収が解除され、滑走路と他の戦争遺構は自衛隊(1954年に警察予備隊から改編)から大蔵省の管理という扱いになりました。つまり、国有地になったんです。実際の管理をしていたのは、自衛隊の業務隊でした。

昭和23年3月の鶉野の航空写真。まだ姫路海軍航空隊の建物が残っている。写真右上の滑走路は現存する滑走路跡/資料提供:鶉野平和祈念の碑苑保存会

現在の鶉野付近の地図。緑線の枠内が現存する滑走路跡、オレンジ線の枠内が食資源教育研究センター敷地。上の写真と見比べると、センター敷地がかつての姫路海軍航空隊跡地の大部分に重なることがわかる。/出典:Googleマップ

上の写真(昭和23年3月)の、「姫路海軍航空隊跡」付近を拡大。姫路海軍航空隊跡地の大部分は、現在の神戸大学食資源教育研究センターの敷地。航空隊の中枢機能があったため、現在でもこの付近には多くの遺構が残る/資料提供:鶉野平和祈念の碑苑保存会
基地跡の一部が神戸大学農学部の敷地に【1967(S42)年】

 あるとき(※時期は不明)、自衛隊の千僧駐屯地(兵庫県伊丹市)に防空壕などの戦争施設の取り壊しを依頼したことがありましたが、「防空壕がたくさんあり、しかもコンクリートはあまりにも堅い。これをつぶすとなったらすごい金かかるで」ということで、建物だけ解体して、防空壕などはそのまま残しておくことになったんですよ。1964(昭和39)年頃に、兵庫農科大学(1966年、神戸大学農学部に移管)の附属農場(※現在の神戸大学大学院農学研究科附属食資源教育研究センター)建設が決まり、1967(昭和42)年には附属農場が開場しました。このときにも、防空壕は取り壊されませんでした。幸いなことに、神戸大学の敷地内、すなわち公の土地になったので、役所も民間(の人・企業)も遺構には手を付けられなかったのです。神戸大学が来たおかげで、ここの遺構はそっくりそのまま残っているともいえます。民間が手を付けなかったもう一つの理由には、水がなかったことも挙げられます。地下を5,6mほど掘らないと水が出ず、当時は水道もありませんでした。そのため、工場などにいい立地ではなかったのです。

 こういった理由で戦争遺構はかなり放置されました。ただ、そのおかげで今に至るまで残っています。

現在の鶉野飛行場滑走路跡地の様子。広大な滑走路が残されている

現在は加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」の敷地内に位置する慰霊碑「鶉野平和祈念の碑」。1999年(H11年)に作られた。この慰霊碑には、沖縄近海で戦死した白鷺隊員や鶉野で殉職した隊員らの名が刻まれている

神戸大学大学院農学研究科附属食資源教育研究センター敷地内の戦争遺構の詳細については前編にて

 最後に、上谷さんからのメッセージです。

 私は今83歳で、終戦の時に7歳くらいでしたので、戦争を実際に経験している世代です。私の実家は高砂(現在の高砂市)にあり、近くに加古川飛行場があったので、上空に戦闘機が飛んできたり、防空壕に逃げ込んだり、父が戦争に行ったりと、そういったことがありました。その後、不思議とここ鶉野に来たので、飛行場や航空隊のことなど、鶉野に関することをいろいろ調査してまとめてきました。若い人たちが特攻隊として飛び立っていった話など、非常にかわいそうな話も多いです。しかし、80年近く前のことで、ほとんどの人の記憶はなくなっているでしょうし、若者にとっては遠い出来事かもしれません。今回、鶉野という戦争遺構が多く残っている町の存在、また鶉野で起こった出来事について多くの人に、そして神戸大学の学生の方にも知ってもらえたらと思います。

 

※なお、当記事の執筆にあたり、以下の資料を参考資料として用いています。

・「加西・鶉野飛行場跡 ガイドブック」(加西市ホームページ内,https://www.city.kasai.hyogo.jp/uploaded/attachment/2140.pdf

・「子ども向けガイドブック鶉野飛行場」(加西市ホームページ内,https://www.city.kasai.hyogo.jp/uploaded/attachment/2141.pdf

関連リンク

www.city.kasai.hyogo.jp

 

記事を担当した学生

  • 文学部 2年 岡島 智宏

【取材報告】~神戸大学敷地内に眠る戦争の記憶~(前編) 農学研究科附属食資源教育研究センター(加西市鶉野町)内の戦争遺構見学レポート

 神戸大学大学院農学研究科附属食資源教育研究センターは、兵庫県加西市鶉野町に位置し、田畑や果樹園を抱える広大な敷地の中で、本学農学部・農学研究科の学生・教員が実習や研究を行っている場所です。

 しかし、このセンターにあるのは農学の学びの場だけではありません。実はここは、多くの戦争遺構が残っている場所でもあります。というのも、このセンターが位置する加西市鶉野町は、太平洋戦争の戦時中に海軍の飛行場や民間の航空機工場が位置し、現在までいくつかの戦争遺構が遺る町なのです。現在のセンターの敷地は、戦時中は海軍航空基地の中枢施設が集中していた場所であるため、特に多くの戦争遺構が集中しています。

 前編では、特別に許可を得て見学した戦争遺構の数々をレポートします!


加西市鶉野町(センター付近)の歴史概略(詳しくは後編にて)

1943年10月 姫路海軍航空隊が開隊。それに伴い鶉野飛行場を含む航空隊の施設が現・食資源教育研究センター付近に開設。姫路海軍航空隊は、パイロット養成のための、飛行機(戦闘機)操縦の実用訓練を行う練習部隊であった。

1944年12月 姫路海軍航空隊の敷地に隣接し、川西航空機姫路製作所鶉野工場が操業開始。戦闘機「紫電」、「紫電改」等の組立が行われた。

1945年8月15日 終戦。その後、旧姫路海軍航空隊の敷地はアメリカ軍による接収・管理や警察予備隊の進駐を経て、1957年、大蔵省の所管に

1967年 神戸大学農学部附属農場(現・食資源教育研究センター)が旧姫路海軍航空隊跡地に開場


 この戦争遺構は一般公開をされておらず、センターに学びに来る学生も、遺構の存在を周知はされているものの、実際に内部まで詳しく見学した学生はいないそうです。

 ぜひこの機会に、神戸大学の敷地内にある戦争遺構の存在を、多くの方々に知っていただければと思います。

戦争遺構・レポート

(※加西市に貸与されている・一般公開されている遺構を除く。画像は、一部加工・トリミング等の編集を施しています)

遺構マップ・ピンク線の枠内がセンター敷地(出典:加西・鶉野飛行場跡)

※遺構マップの①~⑪が、以下の通し番号(1)~(11)に対応

(1)防空壕① 

 普段は長方形の開口が蓋でふさがれているが、内部は空洞のまま現存しており、垂直方向に穴が開いた状態である。地下部に下る階段はないが、はしごをかけて下に降りることができる。内部は温度や湿度の変化が少ないため、現在はサツマイモの貯蔵などに活用されている。垂直方向に降りるとアーチ型の天井をもつ広い地下空間が広がっており、奥の方向には通気口が設けられている。内部の空間はやや「く」の字型に屈曲している。内壁のコンクリートはひび割れ等も少なく、約80年前の建造物とは思えないほど状態が良い。

はしごで垂直型の穴を降りる

アーチ型天井と広い空間

センターによりさつまいもを貯蔵する箱が置かれている

防空壕奥の壁には通気口がある
(2)貯油庫

 内部はすでに埋められており、外からは地上に露出した入り口部分のコンクリートが見えるだけだ。垂直方向の穴の形になっていたとみられる。この貯油庫の近くで、不発弾が発見されたこともある。

貯油庫
(3)防空壕

 周囲のかさ上げにより、入り口の位置が周囲の地面よりも低くなっている。小高い斜面を下って入り口に至るため、内部は埋められてはいないものの、人が入ることは難しい。取材当時は、センター側で伐採した木々が入り口の前に少し置かれ、容易には人や動物が入れないようにされていた。

防空壕
(4)対空機銃座

 上空から攻撃する敵軍の飛行機を銃で撃つ際に、大きな機銃を装備して銃弾を撃っていた場所・設備が、対空機銃座である。対空機銃座は、コンクート製の構造の地上に露出した上部が、実際に機銃を置いて撃つ部分であり、下部の地下に埋もれた部分が、銃弾など必要な道具を収める地下室である。地下室には、階段が設けられた対空機銃座外部からの入り口と、上部の機銃を設置する部分と連絡する垂直な昇降口(壁面にはしご有)がある。地下室のコンクリートはひび割れなどの老朽化は目立たないが、地上に露出した部分のコンクリートは、一部が自然に崩壊しているため、対空機銃座は形が変わっている。大学施設の敷地内になった後も、一時は地下室が職員の休憩所や物置として使われたこともあるという。

対空機銃座の外観。コンクリートの一部が崩壊し、全体が変形している

対空機銃座の入口
 

対空機銃座の入口
(5)防空壕

 かさ上げにより、入り口部分の地面が高くなっている。現在は人が入れない状態になっている。周囲が物置として使われている。

防空壕

防空壕
(6)発電機室

 地下に発電機を収めていた設備である。土と芝や草によって覆われ、上空からは小山のように見えるようにされている。外部(地上)からの入り口は2つあり(現在、そこから入ることはできない)、その跡が今でも確認できる。

発電機室
(7)暗号班室

 暗号班室は、隣接する姫路海軍航空隊本部庁舎内の航海科通信室から、有線及び無線の通信による情報を解読する暗号班の隊員が配置されていた場所であった。各航空隊や大本営(戦時の日本の陸海空軍の最高統帥機関)との通信連絡では、暗号班室で解読及び送受信が行われた。隣接する地上の本部庁舎とは独立した防空壕の構造になっており、隣の発電機室(上記)で発電された電気を用いることで、本部庁舎の機能が攻撃等で失われても通信機能を維持できた。

 かつてはカモフラージュのため土で覆われていたが、職員によってその土が削り取られたため、今はコンクリート製の外壁がむき出しである。入り口が2つあり(現在、そこから入ることはできない)、その跡が今でも確認できる。

暗号班室

暗号班室

横に並ぶ発電機室(手前)と暗号班室(奥)
(8)防空壕

 コの字型に2本の通路を組み合わせたような形で、出入り口が4つある。土手(斜面)に沿って防空壕があるため、斜面の下に出入り口が2か所、斜面の上につながる出入り口が2か所ある。斜面下の(図の)右側出入り口は、目立たないように前に曲形の土塁のようなものが置かれ、正面からは出入り口が見えにくくなっている。左側出入り口は、かつて同様に土塁が置かれていたが、現在は削り取られており、正面から出入り口が見えている。内部のコンクリートの状態はよい。

防空壕④の入り口

右へ曲がる通路空間と前方への通路空間がある

斜面下に防空壕入り口があるが、土塁状の土を盛った構造により、その位置が分かりにくくなっている

マーキング部分に防空壕入り口があるが、土塁によって見えにくくされている

赤い〇印で示した部分が斜面下に位置する出入り口(写真にも写っているところ)
青い〇印が防空壕の奥にある、斜面上に通じる出入り口
(9)防空壕⑤ 

 【(8)防空壕④】の近くにある防空壕。現在は内部が埋められ立ち入ることはできない。

(10)防火用水

 名前の通り、防火用水の貯水タンクとなっている。現在でも貯水タンクとして活用されており、取材時も水が溜まっていた。貯めた水は、稲の苗などの植物の水やり等に活用されているという。塗装(モルタル)に一部老朽化が見られるが、パイプなどの設備も設置され、現在でも活用されている。

貯水タンク

貯水タンクは今も水をためて活用されている
(11)エプロン

 かつては飛行場に発着する飛行機の駐機場となっていた場所であった、コンクリートで敷かれた130メートル四方のスペースである。一部分がセンターの畑になっているものの、土の下にはコンクリートが残っているため、全体が現存している。コンクリートは長い年月が経っているため、傷みも見られる。所々、丸く穴が開いているところがある。

エプロン

画像奥の広い空間がエプロン

 


 以上、戦争遺構に関するレポートでした。食資源教育研究センター内の戦争遺構は、コンクリートの耐久性が高いこと、地下空間にあるものが多いことから、比較的原型を留めたまま現存するものが多いです。ため池や森林、畑や果樹園に囲まれた自然豊かな環境であるため、防空壕内には落ち葉や植物残渣が見られ、それらが堆積している防空壕も見られます。また、原形を留める構造物以外にも、コンクリートの残骸が自然に放置されたものも見られ、かつては更に多くの関連する施設があったことを示していました。

道沿いに残るコンクリートの残骸

斜面に残るコンクリートの残骸

 今回戦争遺構を案内していただいた食資源教育研究センター職員によると、現存する戦争遺構は、【(7)暗号班室】において、コンクリート構造を覆う土を削り取ったことと、【(8)防空壕④】において、一部の土塁状の構造を削り取ったこと以外では、保全目的の改修も含めて、食資源教育研究センターが手を加えたことはなく、特別な保全作業もなされていないとのことです。ただ、戦争遺構は内部が空洞になっているものが多く、動物や人の侵入のリスクがあるため、本記事では掲載していませんが、かつて内部を埋められた戦争遺構も存在するそうです。

 

 さて、神戸大学の敷地内に防空壕などの戦争遺構が多くあることに驚かれた方も多いのではないでしょうか。後編では、なぜ加西市鶉野町、そしてこのセンターに、戦争遺構が多く残っているのかお伝えします。ぜひご覧ください!

 

記事を担当した学生

  • 文学部 2年 岡島 智宏

【取材報告】~専門にとらわれない思考を~「数理・データサイエンス・AI教育プログラム」

 近年、「データサイエンス」という言葉が注目を集めています。神戸大学でも、本年度から全学向けに、「数理・データサイエンス・AI教育プログラム」(旧:数理・データサイエンス標準カリキュラム)が始まりました。このプログラムについて、数理・データサイエンスセンター副センター長の首藤先生に取材しました。

――そもそもデータサイエンスとはなんですか?

 昔から統計や人工知能といった、データを活用する研究分野はありましたが、近年は一般の方もデータを簡単にとることができる状況になり、データにまつわる学問を体系的に学ぶ必要が出てきました。それらの学問をまとめてデータサイエンスと呼んでいます。

―――ということは、以前はデータの数が少なかったのでしょうか?

 データ自体の数というよりも、データを記憶できる量が飛躍的に多くなりました。クラウド(※インターネット)上にデータをアップロードすることも多くなっていますよね。それで、一般の方や、企業も多くのデータを貯められるようになったので、それらを活用できないかと考えられており、近年はデータサイエンスに対する期待が強くなっていると思います。

―――「数理・データサイエンス・AI教育プログラム」は全学向けとのことですが、いわゆる文系の方や数学が苦手な方は、「データサイエンス」には、抵抗を持ちやすいのではないかと思います。特に文系がデータサイエンスを学ぶことにはどんな意義があるのでしょうか?

 案外、データを「使う」ということに関しては、文系の方でも興味のある人は非常に多いです。こういうことを自動的にできたらいいなとか、データに基づいてきちんと説明できたらいいなとか、これは文系理系に関わらず、普段過ごしていれば思うことで、なおかつ必要とされる能力だと思います。

 たとえば企業などで、お客様に納得してもらう提案をするためには、このようなデータとデータ解析の結果があるから、このような決定をさせてくださいと説明をしていくことが必要です。こういった、説得力がある説明をするためのデータ活用は、文系理系問わず広く求められる能力だと考えています。

―――プログラムの昨年度からの変更点と内容について教えてください。

 詳しいカリキュラムは資料を照らし合わせてもらえたらと思います。

http://www.cmds.kobe-u.ac.jp/literacy_level_program/index.html

 ただ、考え方として全学に展開した点と、1年生で開講しているデータサイエンス基礎学が卒業要件科目の単位に算入できるという点が大きな変更点です。

 また、昨年まで開講されていた「データサイエンス・標準カリキュラムコース」とは異なり、「AI」(※人工知能)というワードを入れていますが、これは、最近注目をあびるようになった「AI」というキーワードをいれて、その部分をさらに充実させていく意思をあらわしています。文部科学省でもAI教育は推進していかなければならないといわれており、「Society5.0」(※サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society))という言葉もでてきています。

 ちなみに、AI教育推進の背景には、人口の減少も関わっています。今後人口が減っていくのは確定している事実としてあり、人手が足りなくなるという社会的情勢に対して、AIを使って支えていく動きがフィーチャーされているところです。

―――カリキュラムの中には、AIだけでなく、プログラミングもありますよね。プログラミングと言われると、なじみがない文系の方も多いのではないかと思いますが、文系の方でもステップアップしながら学習できるようなカリキュラムにはなっているのでしょうか?

 もちろんです。まず、1年生が履修するデータサイエンス基礎学の最初の3回では、文系の方が興味をもつようなデータサイエンスやAIの利活用の話を必ず取り入れるようにしています。例えば、マーケティングリサーチ会社では広告の効果測定を行うことがありますが、そのような会社では購買者層をグループ分けし、ある広告を出したときに販売促進につながっているかどうかを検証するなどしています。特に経済・経営の学生は興味があることだと思うので、そういう部分は意識して授業内容に組み込んでいます。

 また、プログラミングに関しては、最初は文字の羅列でわからなくて、抵抗もあると思います。それを解消するために、データサイエンス基礎学では、エクセルを使って自分で操作をすると、その通りにプログラムを書いてくれるマクロの記録機能のデモンストレーションをしています。その機能を使うと、プログラムを書く能力がなくても自動的に作ることができるため、プログラミング自体になじみを持ってもらえている感触もあります。

 このような導入部分はゆっくり時間をとって説明するようにしています。そのあとのカリキュラムでデータサイエンス概論があり、そこでも動画でインプット、基礎的な知識をつけて、Zoomで演習を付加するという形式で授業を提供しています。

 人それぞれ相性はあるので、万人受けするとはいいませんが、比較的神戸大学は様々な学部の学生に対して手厚くカバーしていると思います。

―――近年では、文系出身のSE(システムエンジニア)も増えていると聞きます。進路の幅もひろがりそうですね。

 私個人としては、数理データサイエンス、AIをバリバリ使うような職業に全員就く必要はないと思っています。しかし、各々専門性を持ったうえで、ほかにも引き出し(武器・道具)を持っていてほしいという考えで授業を提供しています。例えばこういうものを売りたい・提案したいといったときに、引き出しが多いのと少ないのとでは大きくパフォーマンスが変わります。神戸大学の学生は優秀なので、そこのエッセンスを教育すると工夫して使ってくれると思っています。そのトリガーになれたらいいなと考えています。

―――今後の展望を教えてください。

 教員のひとりとして、学生には自分の専門性を活かしつつ、一見自分の専門性に関係ないものも勉強しようとする姿勢を学んでほしいと思っています。そのなかで、データサイエンスやAIがそれに対応するのであれば、受講してほしいです。

 また、それらをすべて得意になる必要はないですが、こういう技術がある、解決方法や分析方法があるということを知って世の中に出てほしいと思います。自分ができなかったとしても、活用できそうな武器や道具があるということを知っていれば、それができる人や一緒に働いている人、同じコミュニティで過ごしている人の大切さに気付いて、良い関係・良い仕事につながると思います。

 このプログラムを通して、数理・データサイエンス・AIの三つの軸では、どういうことができるかということを示し、社会で使ってもらえる人を輩出することを目指しています。

―――今の時代、専門分野だけでなく、ほかの分野にも興味を持っておくことが大事ということですね。

 大学に入るまでの間は、テストの点数をより高くとるということが求められていたと思うのですが、会社や研究者間においては、人の個性は、その人が持っているスキルの組み合わせということが多いです。例えば気を配れる、こんな専門性がある、さらにほかにも引き出しがある、というように、その組み合わせで尊敬されたり、頼りにされたりすることが多いと思います。

 少なくとも、一つの能力だけが求められるわけではないので、大事にして勉強しようというものを複数持っていると、いつのまにか自分のコミュニティの中で唯一の存在になれるのではないかと思います。

―――最後に一言お願いします。

 数学や情報科学が武器になる分野ということは否定しませんが、それらが苦手な方も、とりあえず一回かじってみてほしいです。試食という感じでデータサイエンス基礎学から受けていただければ、そこでの自分に合わないという感覚も、面白そうと思う感覚も、それらは両方とも収穫になると思います。

 どの科目にも限らず、いろいろな学問に触れて、そのなかで「数理・データサイエンス・AI教育プログラム」が魅力的だとおもったら続けてもらいたいし、また、勉強してみようかなと思ってもらえるように努力するので、ぜひ受講してもらえたらと思います。

 

(参考)

神戸大学数理・データサイエンスセンター「神戸大学 数理・データサイエンス・AI教育プログラム(リテラシーレベル)」

http://www.cmds.kobe-u.ac.jp/literacy_level_program/index.html

内閣府、「Society5.0」

https://www8.cao.go.jp/cstp/society5_0/index.html

 

 

〇取材を担当した学生のコメント

  神戸大学は総合大学であることも手伝って、こういった分野横断型カリキュラムがいくつか提供されています。大学には学部を選んで入学しているので、専門科目にばかり気を取られがちですが、学生のうちに、専門科目以外のことも知識として持っておくために、特に先行き不透明な今の時代、広い視野を持つという意味でも、こういったカリキュラムを受講することは有意義なことではないかと思いました。

(法2・寺岡)

 

 

【取材報告】~留学を考えている人・留学生へ~国際教育総合センターのサミナさんに取材しました(後編)

 神戸大学への留学生を対象とした企画の運営や支援を担っているCIE(神戸大学国際教育総合センター)のサミナさんに取材をしました。サミナさんは、オーストラリアから神戸大学に留学していた経験もあります。後編ではサミナさん自身のことについて聞いてみました。

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――留学したのはなぜですか?また、神戸大学を留学先に選んだのはなぜですか?

 当時オーストラリアで専攻していた分野が医療法と哲学で、ずっと「生と死」について考えていて、ちょっと疲れてしまっていたんです。そこで、息抜きとして日本語の授業を受けることにしたのですが、その成績が評価されて、西オーストラリア州姉妹都市である兵庫県にある神戸大学へ、日研生(日本文化研究留学生)として推薦されました。医療法と哲学から離れたい気持ちもあり、日研生として神戸大学に留学することを決めました。

 実は、当時は神戸のことは全然わかっていませんでした。ただ小学生の時に、にのみや先生という、阪神・淡路大震災での経験から積極的に活動されていた方にお会いしていたので、「神戸は熱い人がいる街」という印象はありました。

――留学中に困ったことはありましたか?

 私は日本とオーストラリアのハーフなので、祖母と母の日本語での会話を聞く機会も多く、発音には自信があったのですが、読み書きが苦手でした。私が留学した時の日研生には、日本の恋愛事情に興味を持つアメリカの方、漢字がすごく好きなロシアの方、平和論のプレゼンを受けて興味を持って来たスリランカの方、中国語を勉強していたのに大学の手違いでスケジュール上日本語中級のクラスにいれられ、猛勉強したポーランドの方がいました。それで、周りの人たちに比べて自分が楽をしてきたと感じ、焦りました。それが最初は少し辛かったですね。

――留学時代に楽しかったことは何ですか?

 はじめは焦りもあって苦しかったのですが、少し経ったら楽しくなりました。日本の古典や演劇など、専門ではない分野の勉強が楽しかったです。それまで大学はしんどいところでしかなかったのですが、大学が楽しいところに変わりました。大学の外でも、旅行に行ったり、日本の治安がいいこともあってヒッチハイクで日本中を回ったりできて楽しかったです。f:id:KobeU_stu_PRT:20220314152512j:plain

――サミナさんは、いろいろなお仕事を経験されていますが、キャリアについて聞かせてください。

 キャリアに関しては正直何も考えておらず、その都度、楽しそうだと思うことをやってきました。

 まずは大学卒業後、日本にまた行きたいという気持ちがあったので、修士を日本で勉強したいと思いました。それで、留学が終わる前から神戸大の先生に相談していたのですが、当時勉強したかったのが第二言語習得についてであったにもかかわらず、私にはその基礎知識が全くないことに気が付きました。そこで、CELTAという英語教師になる資格をとって、学部習得と同じレベルの知識を学ぼうと思いました。その時に通っていた学校のほうから、うちの先生にならないかと言われて、一年くらいはオーストラリアで英語の先生をしていました。その学校は、先生たちも若く、授業のほかにも先生の得意なことを紹介する時間もあって、楽しく働いていました。

www.cambridgeenglish.org

 その後、偶然パースの領事館に行ってJET (日本交流教育)プログラムの存在を知り、長野の飯山市役所で国際交流員として働くことになりました。CELTAを取っているときに、都市計画の修士も取ろうとしていて、ちょうど飯山市が新幹線の開業を行ってから3ヶ月後程度だったので、勉強していたことを身近で見られておもしろかったです。また、新幹線によって海外のお客さんもくるだろうということで、姉妹校の協定や、観光施設の資料作成、海外の方への飯山の紹介や、地元の方と海外の方との触れ合いの機会を提供する仕事をしていました。

 それから、今度は東京に行きたいと思うようになって、サーブコープというオーストラリアの会社で、秘書として働いていました。そこでは、通訳や名刺交換などを楽しくやっていたのですが、長野にいたときにつくったプロモーションビデオをYouTubeで見た方からお声がけいただいて、三菱地所に入社することになりました。そこでは、海外のMICEイベントのプロモーションの仕事をしていました。

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 結婚して神戸に来た後、はじめは家で翻訳の仕事をしていたのですが、つまらないなと感じていました。そんな中ちょうど留学時代に会ったロシア人の方も結婚して神戸にいることがわかりました。それでいっしょに神戸大学の食堂やCIEに行くと、お世話になっていた事務の方がいたんです。いろいろお話しして、雑務などお手伝いできることはないか、と言ったら、ちょうど2020年の冬プロが始まるところで、遠足の同行や講演などをさせてもらうことになりました。その結果、学生目線での好評をいただいて、翌年の冬プロにもお声がけいただけました。

 去年の夏はオリンピックで仕事をしていました。オリンピックでは、海外のメディアがたくさん来ます。そこで、日本の電力では対応できない海外のメディア用機器の電力として、会場にバックアップ用の発電機を持ってきて設置するにあたって、現地の従業員の方、海外からの電気技師、他の業者さんのコーディネートをする役割を果たしました。私には一切工業関係の知識はありませんでしたが、日本語と英語が話せるのと、時間の管理が上手いということでお仕事をいただくことができました。そのあとは、再びCIEで働くことになりました。

 やはり、私のキャリアは、常に楽しいことを追っているものです。でも、意外とそれが通用する世の中だと思います。

――留学生がキャリア形成(就職)する際の障害は何だと思いますか?また、それを支援するような企画にはどのようなものがありますか?

 履歴書の書き方やビジネスマナー、日本の企業がどんな構成をしているのか、あとは社会保険の仕組みなど基礎的な知識がまず大事だと思います。そしてそのような知識を得るための講座をCIEから提供しています。

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CIEがある神戸大学百年記念館

 しかし、ビジネスマナーやメールの書き方ももちろん大切ですが、日本と海外の価値観の違いを知ることも大切だと思います。たとえば、私の履歴書もそうなのですが、海外では基本的に一つの就職先に一生勤めることがないので、転職の多い履歴書を見て、日本では「飽きっぽい」とみられてしまうかもしれません。また、仕事に対しても、日本では勤務時間外に業務の電話があったり、残業が当たり前だったりしますが、海外では基本的にそういうことはないです。特にオーストラリアは、ワークライフバランスを大事にする国なのもあって、日本で働いて、周りについていこうとして身体を壊してしまう人も多いように思います。そういった認識の違いの理解を、何かの機会に発信していきたいです。誰もがそうなのですが、特に海外で働くときは、自分の生い立ち、在住する社会、職場独特の3つの文化の間に生きることになるので、どの価値観にも根を張らず、柔軟でいつつ、曖昧な空間で自分の中で価値観の軸を守ることが一番大切だと思います。

 あとは、就職活動をする際のアドバイスですが、面接を受けるときには、面接官の人にちょっとでもやりたいという気持ちが伝わったり、コネクションができたなって思わせたりして、ガードを下げてもらえたら手ごたえありだと思っています。

 また、日本人も外国人も関係なく、仕事が趣味になってしまうことも多いので、仕事以外の趣味の時間も大事にしてほしいです。

――これからどんなことをしていきたいと思っていますか。

 これからも通訳リエゾン(Liaison)の役割をやっていきたいと思っています。通訳リエゾンというのは、最近の概念で、言葉を聞いたとおりに直接翻訳するのではなくて、人の間を取り持つ役としての通訳です。たとえば、誰かが「鼻が高いですね」と言ったのを「your nose is tall」といっても意図が伝わらないので、ワンクッション置いて、「これは褒め言葉で、鼻が高くて素敵ですね」と言うように、補足するなどしてニュアンスを伝えて、関係を取り持つという仕事をやっていきたいと思っています。

 それが主要なやりたいことではあるのですが、もし機会があればCIEで学生の相談に乗りたいと思っています。特に留学生は、留学自体が楽しくなって周りがみえなくなってしまいがちなので、視野を広げる手助けをしたいです。

 また、話は変わりますが、日本には支援や制度がたくさんあるのに、プロモーションが下手で知られていないということも多いです。姉妹校ではない大学の情報や、大学を通さない支援や制度などについては特に知られていないことも多いと思います。プロモーションには大学間も、より広い社会でも連携が大事になるので、留学生・外国人の目線で、そういった情報の発信、プロモーションもできればと思っています。

――最後に、大学生や留学生に一言お願いします。

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 生きている中、どうせ泣いたり笑ったりする回数は同じくらいだと思うので、留学して、違う環境で泣いたり笑ったりしてみてもいいのではないかなと思います。もちろん留学することのしんどさもあると思うのですが、家にいても「私何をしているのだろう」というときもあるから、それなら違う環境で、ちょっと大胆に泣いてもいいのではないかと思います。

 少しでも興味や機会があるのであれば、思いもよらない形で人生が変わると思うので、留学してみることをおすすめします。私も留学をしてなければ違う方向に行っていたと思いますし、夫にも会えていなかったですし。 

 もちろん留学がすべてということでもないですが、日常をちょっと抜けるというのは大事だと思います。たとえば、近所でもちょっと違うところにいったり、通勤も違うルート通ったりしたら、いろんな刺激を受けることがありますよね。環境が変わるだけで、やってみたことのないことをやってみることで、自分はこれが好きなのだと気づくこともあるので、留学をして、視点を変えてみるというのはいいと思います。

 

〇取材を担当した学生のコメント

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 サミナさんの取材で一番感じたのは「異文化で生きていくことの難しさ」です。留学によって、いろいろな文化や価値観を知ることができ、その後の人生もより豊かなものになると思います。しかし、一方で、海外で、特に就職する際には、その国の文化の違いに苦しむことも多いと思います。「郷に入っては郷に従え」(余談:これも直訳すると意味不明なので通訳リエゾンの必要性を感じる言葉ですね。)という言葉もあります。しかし、このグローバル化の時代、学校にとどまらず、仕事でも外国の方とかかわる機会も多いでしょう。そこで、難しいことではありますが、「お互いの文化を知り、尊重し、歩み寄ること」が重要ではないかと思いました。(寺岡)

 

【取材報告】~留学を考えている人・留学生へ~国際教育総合センターのサミナさんに取材しました(前編)

 国際教育総合センター(以下、CIE)では外国人留学生のための支援などが行われています。今回は神戸大学の元留学生で、現在はCIEで留学生向けプログラムの企画や留学生の支援などを行っている、サミナさんを取材しました。コロナ禍での支援の在り方や、短期間の日本語・地域理解講義である「神戸日本語プログラム 1月セッション2021 Discover the Kobe Area and Japan- Australia つながり!」(通称:冬プログラム)についてのお話を伺いました。

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――CIEではどのようなことをされているのですか?

 私は、「冬プログラム」という日本語日本文化冬期講習の企画運営を中心に行っています。これは2020年に始まったもので、オーストラリアの学生に対して提供されている3週間の日本語と地域理解に関する集中講座です。他には、簡単な翻訳やネイティブチェック、留学生向けのビデオ資料のナレーションなどを行っています。

――冬プログラムでは具体的にどのようなことを行っているのですか?

 CIEの齊藤先生主体のプログラムで、1年目は対面での活動でしたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響でそれ以降はオンラインで行っています。日本に来たいと思っている学生が対象となっているので、なるべく神戸に来ている状況に近い体験を提供できるようにと考えました。そのためオンデマンド資料による講義はなしで、ライブで行うということにこだわりました。

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 内容は大きく分けて日本語に関するものと、地域理解に関するものがあります。日本語の授業は1日3時間行います。2時間を全員参加でセオリーを学ぶ授業、残り1時間をチュートリアルとして1クラス4人で学んだ文法を実践し練習する時間としました。

 地域理解の授業は1回2時間で6回行いました。

 まず1回目は旧居留地のウォーキングツアーで神戸の街並みを、2回目は有馬温泉を紹介しました。有馬温泉では、神戸大学の元留学生の方で、歴史ある有馬という地で旅館を受け継ぎ伝統を大切にしながらも、VRの温泉体験やzoomで芸妓さんとの交流など斬新な活動をされている方のお話を伺いました。

 3回目は阪神淡路大震災について、CIEの朴先生にお話しいただきました。朴先生は震災の当時神戸にいたので、身近な体験談として語ってくださいました。

 4回目は私の経験談や日本政府が行っている企画、奨学金制度についてお話ししました。また、川崎重工業が行っている水素発電についても紹介しました。資源はオーストラリアから輸入し、日本で発電技術の開発を進めているもので、面白いつながりですよね。

 そして5回目は水道筋商店街を、6回目は沢の鶴の酒造を紹介しました。海外の人は日本酒に興味を持っている人も多いんです。

 その他、落語家の桂福丸さんによる英語のパフォーマンスや、スパコン富岳についてのバーチャルツアーなど、盛りだくさんのプログラムとなりました。日本語授業と地域理解授業の他にも、神戸大学の学生と参加者の学生が自由に話せる交流会を週に1度行いました。そこでの出会いから、交流会以外にも交流を続けていた学生もいるようです。

――冬プログラムについて今後の課題はありますか?

 アイデアはたくさんあったのですが、3週間という時間の制限がある中で、オーストラリアの学生はやはり神戸の学生との交流を求めているので、もう少しそういった場を設けられたらと思います。また、今回は私がカメラを持って街を紹介したのですが、神戸の学生にやってもらうと面白いのではと考えています。様々な年齢やバックグラウンドを持つ方に、神戸を紹介してもらえたらいいですね。

――これから留学生支援についてどんなことを行いたいと考えておられますか?

 日本に来ることができていない留学生との関わりもあるのですが、いま日本に来ている留学生もいます。しかしオンライン授業で外に出られず、日本にいる意味が見いだしにくくなっているので、そういった学生ともっといろいろなことができたらと考えています。学外になるかもしれませんが、せっかく神戸に来ているので、連れ出して神戸の街を見てほしいと思います。

 

〇取材を担当した学生のコメント

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 魅力的なプログラムが行われているということを知ることができました。今回お話を伺うまでこのような留学生向けのプログラムがあるということを知りませんでした。学生同士の交流を持ちたいということだったので、多くの人がこのプログラムについて知って関われるようになると良いと思います。海外での経験の魅力を感じたので、私自身も留学について前向きに考えたいと思いました。(三木)

 

 

【取材報告】広報誌「風 vol.18」で卒業生のウォーリー木下さんを取材しました

神戸大学広報誌「風」18号を12月17日(金)に発刊しました。「キラリ神大OBOG」コーナーで、学生広報チームのメンバーがウォーリー木下さんを取材しました。

ウォーリー木下さんは演出家・脚本家として活躍されている卒業生で、東京2020パラリンピック開会式の演出を務められました。パラリンピック開会式のお話や学生時代についてお聞きしています。是非ご覧ください。

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関連リンク

○取材を担当した学生のコメント:

法学部3年 中尾 満里奈

「今年、大きな話題となったパラリンピック開会式演出家のウォーリー木下さんに取材しました。様々な質問に明るく真摯に答えていただき、大きな組織をまとめ上げる人としての大きさを勉強させていただきました。

ウォーリーさんが取材中に何度もおっしゃっていたのは「遊び」という言葉です。ウォーリーさんの創作の原点には幼い頃の真似っこ遊びのようなものがあると話されていました。新鮮ではありましたが、大人になるにつれ忘れていたものを呼び起こすことで多くの人の心を揺さぶるものになっているのだと納得しました!今回は貴重な機会をいただきありがとうございました。」

文学部3年 正中 麻侑生

「お会いしたウォーリー木下さんは、その佇まいや表情から、優しさが滲みだしているといっても過言ではないような方でした。多くの人を巻き込んで、スケールの大きな演出を成し遂げることができる所以は、ひょっとするとそうした“人間力”にあるのではないか、と感じさせられた取材でした。

ウォーリーさんの演出の根っこの部分には、「多様性の尊重」があるといいます。観客、ひいては「大衆」を一括りとすることを厭い、「個」の差異へ思いを致す。そうした意識は、意図せずとも、パラリンピック開会式の演出に、たしかに表れていたと、私は思います。」

 

【取材報告】広報誌「風 vol.18」で体育会サッカー部を取材しました

神戸大学広報誌「風」18号を12月17日(金)に発刊しました。「神大生の挑戦」コーナーで、学生広報チームのメンバーが神戸大学体育会サッカー部を取材しました。

サッカー部は今年、学生主体のクラウドファンディングに挑戦し、目標の3.5倍を上回る支援金が寄せられました。クラウドファンディングに挑戦したきっかけや普段の練習についてお聞きしました。ぜひご覧ください。

関連リンク

○取材を担当した学生のコメント:

人間発達環境学研究科修士2年 澁谷 優衣

「まずは、神戸大学サッカー部の皆さん、目標達成おめでとうございます。私も、支援者の方々の思いの大きさを実感しました。
そして、すべて学生主体で運営されていることに驚きました。成功までの道のりには、様々なご苦労があったと思います。
今年度は、多くの新入生が入部されたとのことで、今後益々のご活躍に期待です。」